人間性と愛がある

そう主張しています。

2022/11/08

連絡を返すのに十二時間以上かかった。

その日あったことを全て思い返して記録することは、何か原初的な喜びがあるように思えた。

火曜日、朝、BeBeで買ってきてもらった、ポルチーニ茸とベーコンとチーズの入った惣菜パンを食べる。 いわゆるフレッシュポルチーニのような、弾けるような香りはしなかったものの、しみじみとうまく、大味なパンに合わせるならむしろこれくらいがいいのかもしれない。

出社途中の権之助坂で抗生物質を飲み忘れたことを思い出す。少し迷ったが、早めに出ていたこともあり、薬をとりに帰る。昼間から急激に体調が悪くなった原因がなんだったのかよくわからないが、とりあえず薬を適切に飲めるようになったことで、不安要素が一つ減ったのはよかった。

この日も定例があり、定例後は本当にパフォーマンスが悪いことを実感した。いっそ精神科で安定剤でも出してもらって、広場不安のようなものを取り除いた方が良いのかもしれない。昼休憩のあたりまではあまり仕事にならず。

昼休憩にして、重い体を引きずってSubwayに行く。研修生が接客・調理をやっていた。おそらく顧客として利用したことがないであろう彼と、育成が不得意そうな先輩アルバイトとが、悪い意味で調和していた。気分が悪かったが、とりあえず食事を済ませて会社に戻る。

午後4時を超えてようやく頭が動き出し、体の調子がマシになり始めた。GraphQLのリクエストキャッシュを一部オフにしたり、Viteの設定をいじってビルドディレクトリの調整とかをやった。

午後6時ごろに事業部側の人が来て、進捗確認と打ち合わせをした。

午後7時16分に皆既月食のピークがあったので、バルコニーにでて月を眺めていた。代々木の見事なマンション群に癒され、新宿の時計塔?と渋谷の高層ビル群に破壊衝動を刺激されながら、月が欠けていくのを見た。

体も痛いしやる気も出ないしキリも悪いので、ウダウダ時間を潰して定時で退社。入社して三年経つのにまだ定時退社に慣れない。

Retourという不動産会社のブログを読みながら帰宅。昭和のノリを感じて懐かしい気持ちになった。

帰宅した。鰹のなまり節を使ったご飯を作ってもらう。タッパーに分けていたものまで食べる。 11日に何をするか考える。水族館とアウトレットに行くことになりそうだ。

宅建のテキストを図書館で予約した。 昨日予約しておいた図書たちがすでに到着しているようなので、明日朝にでも取りに行こうかと思う。

2022/11/07

誤字だとわかる誤字は、修正する必要がない。 同様に、間違いだとわかる間違いは、修正する必要がない。

月曜日、朝7時ごろから寝たり起きたりを繰り返す。 日中はさっぱり出血がなかったのに、数時間寝ている間に口の中が血でいっぱいになっていた。 夜の自分はいかに自由なんだろうか。

朝食に、パンを2枚食べる。詳細を忘れたパンオショコラと、ブランのように見える食パン。 朝の定例が始まる15分前くらいにようやく頭が起き出す。急いで議事録を作成する。

朝の定例が終わった。毎回ここで過剰に労力を使ってしまう。 やることが明確になっていないから、常に不安が付き纏ってしまうからだろう。次回から目次を用意することにしよう。

なんとなく菊地成孔のダイエット鍋を思い出して、それを作り始める。白菜とキノコはあったが鶏肉はないので豚肉で、ついでに玉ねぎとさつまいもを入れる。目に留まったので餅も入れる。全くダイエット飯ではなくなってしまったがよかった。

午後一番で歯医者に消毒してもらいに行く。定例からここまでには、全く進捗が生まれない。人生で最も無駄な時間である。メロンが半額になっていたから買って帰る。

歯医者も終わり、午後3時を超え、ようやくタスクに取り組みはじめる。 今日のタスクは、アラートメールがとばないという不具合報告への対応だったが、キリが良いので、レイアウト調整も一緒にやってしまう。

思ったよりも時間がかかってしまい、結局これ以上のタスクはこなせなかった。まあ、在宅時のパフォーマンスとしては平均的だろう。退社する。

退社後、服の話になる。服を好きになったきっかけを聞かれたが、全く思い出せなかった。 好きだとか嫌いだとか、そういう話は感覚か観念で捉えるしかないから、真実は論理の外にある。

資本主義市場における競争をゲームとして捉えるのであれば、誠実さだとか美学だとかはやり込み要素でしかない。 実際、今のプレイヤーたちは、原初のゲームをクリアしていることを薄々感じているのかもしれない。数少ない例外を見つけて、そこに本質的なものを見出そうとする向きがあったりするが、そんなものは唾棄すべきものだと思う。何周もできて武器や所持金を持ち越せるゲームなんだから、業界を変えながら各地でRTAするムーブが望ましいと思う。

俺のこういった、ビジネス世界におけるナルシシズムやロマンティシズムから、距離を置きたいと思う気持ちも、ビジネス世界への軽蔑・過小評価からきているのだと思う。

いつでもオルタナティブみたいなものに憧れていたが、世界の外部を切り捨てて生きていく準備が整っていることを強く感じる。

2022/11/06

とてもよく眠れた。朝11時ごろまで寝ていたと思う。 久しぶりにセブンイレブンの二郎系を食べた後、右上の親知らずを抜きに行った。 麻酔を打って即抜かれたので、痛いんだか痛くないんだかはっきりしないまま、10分程度で抜いてもらった。

思いのほか元気であったのと、痛みを過大評価しないようにしたかったので、そのまま藤沢に出かけていった。 目黒から藤沢まで、一時間程度で800円以上した。東急の価格に慣れていたので、少し驚いてしまった。

藤沢に着いた。ペデストリアンデッキを使って、まず南口の駅ビルを見た。 倉敷にかつてあったルブランという駅ビルを彷彿とさせるようなビルや、半ばイオン化している小田急系の百貨店、雑居ビルというにふさわしいOPAなどを見た。 駅前に戻ると、手回しオルガンの出し物があった。手回しオルガンの楽譜はパンチカードのようになっていて、アナログのようだけど実はデジタル(離散的=ドレミの音程が連続的でない)になっている点が、 アナログレコードと違うのだなと思った。

北口に向かうと、さいか屋という百貨店があった。かつて横須賀にもあったというこの百貨店、創業が19世紀らしい。 入ってみると、昔ながらの有効ボードのような天井、パステルな床、「2階 レディスファッションの街」と書かれているエスカレータの案内表示があった。 結局そのあたりで藤沢探索を切り上げた。この街に住むことを考えて、これでいいとも、吐き気がするとも思った。

家に帰って、雑炊を作ってもらった。 Youtubeの生配信やTverの振り返り配信を少し見た。 強い眠気があったので、12時ごろには就寝したと思う。

2022/11/05

海浜幕張に住むK君の元に遊びに行った。その日は、高校時代の同級生であるM君も来ており、実に10年ぶりの再会になった。 M君は、外国語大学を出て地元で就職した後に東京の若い企業で働いているそうだ。自分も同じような経歴(外語大ではないが)を持つからか、価値観の同質性をひしひしと感じた。いわゆる進歩的なポジショニングとされる西洋的リベラリズムと資本主義の内面化が、その同質性の源泉だろうと思う。

特に人間関係観において顕著だと思った。独立した個人どうしが違いを認め合う・・・そういったモデルを理想として持っているのだろうと思う。 個人的には、そういった理想を自分も持っているけれど、現実的には、安全や同質さによる心地よさというものが持つ強度を過小評価しすぎなのではないかと思う。 より厳密にいうと、マジョリティである自身の”特権性”に無自覚なまま、西洋的な価値観を信望することへの無邪気さ、恐れのなさが見て取れた。

そもそもマジョリティとは原義的に多数なので、同質性が高い確率が高いということであり、心の奥底で安心できる担保がある確率が高いと思う。 そのような自身の特権性に、無自覚な状態であると、その特権が毀損されそうになったとき安心を担保するために排外的な振る舞いをしてしまうかもしれないと自分は思う。

判断の留保と無言の肯定は、他者の解釈によってしか決定されない。 だからこそ、現在判断できることは、判断するしかない。

2022/11/03

不完全であることに対する不安が強くある。

世界を主語にとる文を発したいと思うとき、自分がその世界に含まれていないことが多い。

バスの事故に遭って親が隣で死ぬ夢を見たときから考え方が根本では変わっていないようだ。

感情は同時並行的に発生するのに、言葉は同期的にしか構成できないからあまり得意じゃない。

死にたいとか死にたくないとか、体に固着しているからわざわざ考えなくなった。

言葉とかって、なんか暗くない?

2022/03/26

約半年ぶりにブログの存在を思い出したので。

2021年の後半の記憶がかなりなくなっている。思ったことをその場に置いてくると、ふと思い出したタイミングで様々な形に変えられてしまう。脳がバカになってきて、失うことへの順応を勝手に始めたような感覚だ。

2022年に入った。

仕事や人間関係にはあまり変化がない。 小説と映画は、一つも鑑賞していない。 左手側に本棚を移動させてきたのだが、そこには情報系・数学系の教科書しか置いていない。

戦争が始まった。 ロシアがウクライナを侵攻している。 SNSをはじめとしたさまざまなメディアが、戦争装置としての一面をむき出しにしている。

通院はいまだに難しい。 歯医者は引っ越してからいっていない。 精神科もなし崩しに行かなくなった。 健康診断も、今年はパス。

過去に大人たちが語りかけてきた言葉について少し考えることが増えた。 テストの点だけ取れて、常に現実世界と遊離していた俺のような馬鹿には、本当のことをそのまま言ってほしかった。

いつか大人として、大人の話し方をするようになるのだろうか。

28歳にもなって何が「なるのだろうか」だ。なりたくないだけだろう。

2021/07/24

東京オリンピックの開会式が終わった。 色々な感想を見ていたが、確かに思想は感じられなかったし、だれがだれに向けてメッセージを発信しているのかわからなかった。 関係者は、本当に疲弊しただろうから、全員に1億円配ってほしい。金銭で傷は回復しないけど、それでも数年休むくらいはできるだろうし。

一部のネット空間では、人間を粛正する、あるいは動員して粛正させる、そういう行為が流行っている。 何も最近始まったわけではなく、著名人に対して誹謗中傷し、自殺に追い込むようなことは度々あった。 僕自身は、そういうことが行われている現場を見たことがないが、広く見ると同じ場に同時期に存在していた。

事象のマクロな構造自体は理解しやすいのだけど、じゃあ具体的にどんな人がどれくらいの数でどれくらいの思いで人を攻撃しているのか、これがさっぱりわからない。 これも<時代のムードやコード>なのだろうか?確かに、人が人を殺すことが完全に正しい時代もあったしな。

視点をマクロにしていくと、ある時点で、対象を人と思えないレベルに達することがある。 住宅街を歩いているとき、一人の人間が暮らしているように感じるけど、夜景を見るときは、遠くに灯る工場やビルの光を見ても一人の人間を想像しがたくなる。 フェイスブックの一つ一つの投稿は、個人と紐づけられているように感じるけど、ツイッターのタイムラインにおいてストリーム上に流れる文字列たちは、人の存在を感じないことがある。

僕は、アーキテクチャの問題という面があると思う。 僕が普段使用しているメディアがツイッターだからそれに限定して話をするが、画面上には、ストリーム状に表示されるアイコンと文字列情報、そして三つのリアクションUXが用意されている。 そして、リアクションを集めた投稿は、より多くのユーザーのタイムラインに表示されるようなアルゴリズムが採用されている。 このアーキテクチャが持つ負の側面が顕在化し、さらに常態化しているように思う。

僕自身は、ツイッターで役に立つ情報を多く得ることができたし、今でも使用している。 だから、アーキテクチャがもたらす弊害を最小化しなければならないと思っている。あくまでもツイッターで表示されるコンテンツはユーザーが作り出したものなので、それは可能なことだと思う。

人の考え方を変えることは難しい。暴力にもなりうる。 だから、あるべき世界の理想像を、まず自分の中に確立しないとなと思う。

当たり前のことだけど、今考えたことなので、記事として残しておきます。