人間性と愛がある

そう主張しています。

2021/07/24

東京オリンピックの開会式が終わった。 色々な感想を見ていたが、確かに思想は感じられなかったし、だれがだれに向けてメッセージを発信しているのかわからなかった。 関係者は、本当に疲弊しただろうから、全員に1億円配ってほしい。金銭で傷は回復しないけど、それでも数年休むくらいはできるだろうし。

一部のネット空間では、人間を粛正する、あるいは動員して粛正させる、そういう行為が流行っている。 何も最近始まったわけではなく、著名人に対して誹謗中傷し、自殺に追い込むようなことは度々あった。 僕自身は、そういうことが行われている現場を見たことがないが、広く見ると同じ場に同時期に存在していた。

事象のマクロな構造自体は理解しやすいのだけど、じゃあ具体的にどんな人がどれくらいの数でどれくらいの思いで人を攻撃しているのか、これがさっぱりわからない。 これも<時代のムードやコード>なのだろうか?確かに、人が人を殺すことが完全に正しい時代もあったしな。

視点をマクロにしていくと、ある時点で、対象を人と思えないレベルに達することがある。 住宅街を歩いているとき、一人の人間が暮らしているように感じるけど、夜景を見るときは、遠くに灯る工場やビルの光を見ても一人の人間を想像しがたくなる。 フェイスブックの一つ一つの投稿は、個人と紐づけられているように感じるけど、ツイッターのタイムラインにおいてストリーム上に流れる文字列たちは、人の存在を感じないことがある。

僕は、アーキテクチャの問題という面があると思う。 僕が普段使用しているメディアがツイッターだからそれに限定して話をするが、画面上には、ストリーム状に表示されるアイコンと文字列情報、そして三つのリアクションUXが用意されている。 そして、リアクションを集めた投稿は、より多くのユーザーのタイムラインに表示されるようなアルゴリズムが採用されている。 このアーキテクチャが持つ負の側面が顕在化し、さらに常態化しているように思う。

僕自身は、ツイッターで役に立つ情報を多く得ることができたし、今でも使用している。 だから、アーキテクチャがもたらす弊害を最小化しなければならないと思っている。あくまでもツイッターで表示されるコンテンツはユーザーが作り出したものなので、それは可能なことだと思う。

人の考え方を変えることは難しい。暴力にもなりうる。 だから、あるべき世界の理想像を、まず自分の中に確立しないとなと思う。

当たり前のことだけど、今考えたことなので、記事として残しておきます。