人間性と愛がある

そう主張しています。

2020/03/05

令和2年 2020年3月5日 木曜日 すでに日にちや曜日の感覚がなくなっている

今日1日を振り返る。

朝はパンを食べた気がするんだけどどうなんだろう?リモートワークをしていると、日々の境界が曖昧になっていく。 と思ったけど思い出した。セブンイレブンで塩味の鶏肉バーガーを買って食べたんだった。

コンビニで売られている食べ物は、どれもこれも一人で食べるには質的にも量的にも過剰な気がする。

もちろん、コンビニという物流と製造を最適化した業態において、少しでも質を上げて単価を上げたいという気持ちはわかる。

だけど、日常生活の水準を上げさせてやろうというマーケティング的思考に、少し嫌気がさす時もある。

それが生活を成り立たせるための切実な思いによるものだというのもわかるけど、切実にならざるを得ないシステムを追認することしかできないことの帰結だよね、という意地悪な気持ちも出てくる。

帰宅してから終業までの記憶はすでになくなった。今日はあまり調子が良くなかったな、とは思った。

西田幾多郎の読書会をした。 『デカルト哲学について』という著作において、彼は、哲学の本質はオントロジー存在論)であるべきだとして、当時主流だったカントの認識論哲学ではなく、カントによって超克されたとみなされていたデカルト哲学を見直している。 デカルトによる方法的懐疑の瑕疵をその主語的論理に見出し、そうではなく矛盾的自己同一の無限の運動によって自己を見出すべきだ、としていることがわかった。

そういえば昨日の夜、インスタグラムに自分の写真を上げた。 よく撮れてるし、髪型も変わったから。

テキストと名前が紐づいて現前するとき、僕はその人の顔や声を想起する。 男も女もなく、わかる人は全員そうしている。

逆に、わからない人は、テキストの内容から、声や容姿、振る舞いを想像する。 わからない点が多いほど、僕の引き出しにある表象が当てはめられて、僕の中で整合性が取れた人物像になっていく。

こうしたプロセスを自覚的にやってみると、自分が持つ偏見や社会性が素直に反映されていて面白く感じる。

饒舌になるときは、何かを隠したいときだ、というテーゼはある程度正しいだろうなと思う。 少なくとも僕が長文を書くとき、書かれないものに本質があることが多い。

だからみんなは行間を読め、というのか、という自己解決をして、今日は就寝